広島県広島市安芸区矢野町にある矢野城跡は、南北朝時代から戦国時代にかけて存在した日本の山城です。別名として保木城や発喜城とも呼ばれています。この城は標高593mの絵下山から北へ伸びた丘陵に築かれており、標高476mの発喜山、標高420mの矢野神社付近、そして現在の矢野城の石碑が建っている標高265m付近の三つの場所に城郭遺構が残されています。
建武2年(1335年)に熊谷四郎三郎入道蓮覚によって築かれたと云われ、南朝方として挙兵した蓮覚は矢野城に籠城し、武田・毛利・吉川の軍勢を迎え撃ちました。四日間にわたる攻防の末に落城し、蓮覚は討死しました。文安2年(1445年)には尾張国野間荘の野間重能が足利義政より矢野の地を与えられ、野間氏が保木城を居城としたのち、野間氏は最盛期を迎えました。
天文23年(1554年)には毛利元就が陶晴賢との対決姿勢を明確にする中、野間隆実が毛利方の仁保城を攻めたことで陶氏に味方し、毛利氏とは敵対することとなった。毛利氏は主力を率いて矢野城を攻め、野間隆実は降伏し、野間氏は滅亡しました。現在、矢野城跡は県指定史跡として保存されており、石碑が建っている場所には野間氏に関連するものや五輪塔と宝篋印塔の一部が積み重ねられています。